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03/04/2008 Tue 10:05 |
待合室
親の死・・・あなたの過去を失うこと
配偶者の死・・・ あなたの現在を失うこと 子どもの死・・・あなたの未来を失うこと 友人の死・・・ あなたの人生の一部を失うこと 『愛する人を亡くした時』 グロールマン 彼らは配偶者の死に接して見るまに気力を失い、自分の人生を身の毛もよだつような「死を待つ待合室」に変えてしまう 『慰めの手紙』 ヘンリ・ナウエン それでも、生きる事。それでも、生きる事。それでも、生きる事。 ・・・そこから、生きる事。 記事の続き |
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禅語・仏教語・言の葉 7 Comments |
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02/24/2008 Sun 10:34 |
自分を拝む
「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」
これは、私が頭を剃るご縁を支えてくれた尼僧様の言葉です。 「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」 では、自分で自分を拝むとは、どういうことでしょうか? おそらく、多くの方が、そんなに深く反省しなくとも、とても拝めるような自分でないなと気付くでしょう。 中には、俺は金持ちだから、私は大学院卒だから、または美人だから、という理由で自分で自分を拝めるという回答をする人もいるかもれしません。 しかしこれは、自分を拝める人というよりも、むしろ単に自分が好きな人でしょう。 なぜなら、お金の有る無しや学歴や美醜は、所詮、比較の問題にすぎないからです。 僭越ながら、少し私の話をさせていただきます。 私の実家は工務店です。実家の菩提寺は、浄土真宗西本願寺派です。 頭を剃ってなければ、今頃は工務店の社長をしていたかもしれません。 20歳の頃に大切な人との別れがありました。 それが機縁となり、禅の世界にひかれていきました。 大学は、駒澤大学の仏教学部にすすみました。 その頃、ありがたい事に、福井県にあるお寺の老師とご縁をいただきました。 在学中の4年間は時間とお金ができると、東京駅から夜行バスに乗ってそのお寺に参禅に通いました。 短いと1日、長いときで3ヶ月位。 何故に人は死ななければならないのか、何故に人は生きなければならないのか、ただ、真実をあきらかにしたい、そんな願いを持ちながら、老師様の教えを聞きに通っておりました。 大学を卒業してからも就職をしないで、そのままそのお寺に住み込んで坐禅をしておりました。 そのお寺での生活は、毎朝、朝2烓、2回という意味ですが、坐禅をします。 1烓とは、およそ45分です。 夜は3烓、3回坐禅をします。それ以外は、作務と托鉢。 小さなお寺ですから、畑を作り、3日に1度は托鉢に歩く。 接心という、1週間朝から夜までひたすら坐禅をする期間が年7回ありました。 夜は9時が就寝の時間でしたが、ゴザと坐蒲を持って、お墓で坐禅をしていました。 明け方まで坐っておりました。 その頃の写真を見ると、自分でもびっくりするほど細く、痩せています。 3歳になる姪に、これ法慧ちゃんだよ、と当時の写真を見せましたら、 首をふって、こんなの法慧ちゃんじゃない!って言われてしまいましたが・・・ 実は、修行を始めて間もなくの頃にイスラエルから来ていた参禅者の方と、大喧嘩をしてしまいました。 今思えば、本当に情けない事です。 老師からは、この事でこっぴどく叱られまして、「出て行け」とまで言われてしまいました。 若かったんですね。「出て行け」と言われれば、すぐ出て行こうとして。 そんな荷物をまとめている私のところに、兄弟子が来て静かにこう言ってくれました。 「全部が自分なんだ。お前は、誰と喧嘩しているんだ。 喧嘩をするという事は、結局、自分と喧嘩している事だぞ」 全部が自分・・・ その時です。ああ、これだったのか、と思いました。涙があふれてきました。 自分自身とは頭のてっぺんから足の爪先までの事だ、と思い込んでいたものが、急にほどけました。 ああ、自分という塊はないんだ、と。自分とは、この世界、全てが自分だったのだ、と。 この大きないのちにもっと深く気付きたいと願う一心で、老師に再び修行する事を請いました。 それから4年・・・老師にお坊さんになる事を許していただき、いまここに至っております。 仏教とは、仏の教えと書きます。 つまり、お釈迦さまのものの見方の事です。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする事。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする時、真理に照らして要らぬ心配をしなくなる、比べなくなる、そして、迷わなくなってきます。 南無帰依佛から始まり、不謗三宝戒で終わるこの16条の佛戒の根本は「衆生本来佛なり」であります。 私たちは、実は、佛様と同じいのちを生きている。 この戒は、破るとか守るが論点ではなく、持<たも>つという視点が大切になります。 持つとは、し続ける事。 わが身を懺悔しながら、繰り返し、繰り返し持ち続ける事によってのみ、このいのちが輝いてくる。 だからこそ、この身が尊い。 仏や仏の教え、そして、その教えを実践する者に響き、信じ、気付き、体現していくのも、この身があってこそ。つまり、この身こそが三宝であるからであります。 この身を謗らない事が、不謗三宝戒であります。 この尊いこの身を謗るような事はあってはならない。 この尊いこの身を傷つけるような事はあってはならない。 この身の尊さが分かれば、徒に命を奪い、与えられざる物を盗み、性を貪り、酔い、惜しみ、口に任し、己のみを高しとし、怒りに任すような真似は、できない。 南無帰依佛と手を合わす事とは、佛を拝み、佛の教えを拝み、それを実践する人々を拝み、 そして、自分を拝む事。 自分を拝むとは、この自分という塊を拝むのではなく、一切を拝む事であります。 一切を拝む事、それが、不謗三宝戒であります。 一切が自分であると気付き、信じ、拝む。 まず、自分を拝む事から、はじめてみましょう。 記事の続き |
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法話 18 Comments |
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02/17/2008 Sun 17:41 |
地蔵真言
お地蔵様とのご縁のおかげで、私は出家する事ができました。
以来、『地蔵菩薩本願経』を毎月24日に読誦するようになり、 ご縁のある人には地蔵真言を勧めております。 地蔵真言 唵訶訶迦昆三摩曳娑婆訶 おんかーかーかーび さんまーえいそわか ※【連絡】 18日から22日まで、所要のため電話に出られません。 お急ぎの方は、メールにてお知らせください。 すぐにお返事できない場合もありますので、ご了承ください。 記事の続き |
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