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12/04/2007 Tue 22:24 |
一
試みに、筆を持って、横線を書いてごらん。そう、漢数字の「一」を。
どうかな?その「一」は? 上手に書けたかな?それとも、思うようにいかなかったかな? もし、今、あなたが書いたその「一」に、あなたの全てが現れていると指摘されたら、どう思うかな? 「勝手に決めんなよ。そんなんで、何がわかるんだよ!」って、思うかな? 確かに、そうだよね。そんな「一」の字ひとつで、俺がわかってたまるかって、ね。 でもね・・・ 高校生の頃、小林秀雄が好きでよく読んでた。『西行』とか『無常といふ事』とか。 評論はともかく、小林から二つの事を学んだ。 そのひとつは、作家の本を全集で読む事。 大学の頃、坂口安吾や中島敦、そして、吉田松陰なんかに取り組んだ。 リルケの原文は、数ヶ月で挫折しちゃったけどね・・・。 もうひとつは、審美眼を養う事。つまり、本物を見るって事。 縁あって、遠州流の茶道を学び、美術館や博物館に通ったよ。 でもなかなか難しいし、実際、そんなに解るもんではないね。好き嫌いもあるしさ。 でも、本物に触れる事は大切だと思う。芸術でも人間でも・・・ タイトルは失念したけど、小林と亀井勝一郎がバスに乗って、伊豆を散策している時の話。 確か、亀井勝一郎だったと思うんだけど、まぁ、いいや。 そのバスに、地元の女子高生が乗ってきた。 彼女の顔を見た瞬間、小林は亀井に、これから彼女が歩む人生が見えるって、伝えるんだ。 すると、亀井が「俺も見える」と応えた。 顔を見た瞬間、その人が解る、もしくは、解ったような気になる。 手相というのもあるし、人相というのもある。 もっと簡単にたとえれば、電話でもそうだろう。 相手が目に見えなくとも、なんとなく、わかる。 どんな思いで話をしているかって。 だいたい、人は声を聞けば、ね。 そういうことって、考えてみれば普通にやっていることだろう。 ほら、第一印象や先入観とか、この言葉は特別なものではないよね。 第一印象が良かったとか、先入観を持って彼を見たとかってね。 そう、それと、同じ事なんだ。小林や亀井が見たものは。 ただ、その瞬間に、得る物・気付く物を正しく受け止め判断する力があるんだ。 それはおそらく、人生の波にもまれ、苦しみ、あがいた結果、身についたものだろう。 そして、それと同時に、彼らが本物を知っていたからだろう。 最初にいったね。本物の芸術と本物の人間に会う事の大切だって。 お拝をして教えを請える人に会えれば、そんな師と呼べる人に会えれば、幸せだよ。 だからこそ、常に審美眼を磨き、感度を良くしていなければならない。 坐禅の修行に独参<どくさん>というのがあるんだけど。 坐禅中に、師が鈴を鳴らす。これは見解<けんげ>をもってこいという合図だ。 すると、修行者は一目散に走って、喚鐘場に並ぶ。 そして、師の合図のチリンチリンが聞こえるや、喚鐘をふたつ打つ。カーン・カーンってね。 本当はそのカーンの鐘の音ひとつで、勝負あり、なんだって。 そう、「カーン」に全部が現れている、足音に全部現れている、呼吸ひとつに、お拝の姿に・・・だから、もう一度坐りなおしてこい、とチリンチリンって、鈴が鳴る。 さて、最初の「一」の話だけど、やっぱり解るんだよね。見る人が見れば、解る。 「書は心だ。上手い下手ではないんです」という意見もある。 けれど・・・考えてごらん。 いくら真心があっても、それを上手に表現できなければ、もったいないよね。 若い頃は年上のお姉さんに惹かれてしまう事が多い。 僕も経験があるけれど、近所にとても優しく綺麗な人がいてね。 ませたガキだったんだね、お姉さんに憧れてた。 朝、「おはよう」と挨拶をするだけで、その日の訪れを感謝したくなるくらいの人だった。 会えない朝は、学校を休もうと思うくらい、落ち込んだ。 そんなある日、僕は彼女の落とした手帳を拾うことになる。 その手帳に書かれた字を見たとき、僕は・・・ 字の話から進めてきたけど、じゃあ、お前の字はどないやねん、と言われると・・・ いざ、練習。 記事の続き |
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11/11/2007 Sun 07:46 |
修業と修行
業を修めると書いて、修業。
学芸を習い修めるのが、修業。 一事を究めようと、一事に秀でようと、修練を重ねる。 和菓子職人になるための修業、小説家になるための文章修業。 習得がすめば、その修業は卒業できる。 行を修めると書いて、修行。 仏道や武道を修めるのが、修行。 一つ一つの行いを丁寧に修めていくのが、修行。 お寺で坐禅修行、技を極めたものが道場を巡って武者修行。 心掛け次第で、どこまでも深めていける。 鈴木正三が、弟子の恵中に示した。「修行とは、我を尽くす事なり」 「我を尽くす」とは? 自分の為に、懸命に励む事のように思うけど・・・ 頑張っている俺には、褒められたい俺がいる。 努力している私には、認めて欲しい私がいる。 頑張りや努力のそばに、他人と比べる自分が顔を出す。 隣りを横目で覗く事でしか、自分を確認できない。 止むにやまれぬ思いから、禅門に飛び込んだあの日、お師匠様からこんな教えをいただいた。 「いま・ここ・一所懸命」 「他人と自分を比較する事をやめなさい」と。 慙愧に耐えないけれども・・・ 我を尽くすとは、自分という塊に拘泥しない事。 我を尽くす時、実は、我ならざるものはない。 いま・ここに、全てがあった。 記事の続き |
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11/04/2007 Sun 20:08 |
他己
夕方、かったるそうにレジを打つ30前の店員。
小銭を取り出すのに手間取っている老婆に、小さく吐き捨てた。 「うぜぇ、早くしろよ」 1時間なんぼの仕事にさえ、プライドが持てないのか? こんな店員を雇い、使いまわして捨てるのも、これもまた、雇われの店長。 「母子家庭になったおかげで、市営住宅にも入れたし、手当ても結構、貰えるの」と、カウンターで、寿司をほおばりながら語る女。 「5年前に離婚届けをだしてさ、でも、実は、・・・ずっと、旦那と暮らしてるのよ、凄いでしょ。だって、こんな時代、真面目にやったら、貯金もできないわよ。 子供?いるわ。小学生と中学生の二人の息子」 利権目当ての偽装離婚。 その親の背中は、どんなふうに、子供に映るのだろうか? くすねた金じゃあ、うまい酒は飲めやしない。 大きなバイクを買っても、任意保険に入らない理由は、「金がないから」 高級車を転がしても、娘の保育料を払わぬ親。 ブランド物のバッグを持つために、「援助」を求める女。 そりゃあ、いい物はいい。でも、本当はどうなのか? 消費による自己実現。晦まされた人の価値。 自由とはお金の事かい? 道元禅師は、他にも己という字をつけ、他己<たこ>と現した。 自分と他人ではなく、自己と他己。 自分と他人の二つではなく、己ひとつ。 ふたつの対立の世界ではなく、へだてのないひとつの世界。 己ひとつの世界だよ、と。 自分の物は俺の物、他人の物も俺の物とするのは、蛸野郎の論理。 他己、それは、他もまた己にほかならぬ事。 自己とは、自分に現れた己であり、他己とは、他に現れた己の事。 つまり、すべてが己。 己ひとつが解れば、老婆が己の姿と重なるだろう。 己ひとつが解れば、世間を騙す事は、己自身を騙す事に気付くだろう。 己ひとつが解れば、この命もその金も、預かり物だと知るだろう。 己ひとつの世界だからこそ・・・愛おしいのだ。 記事の続き |
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