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02/24/2008 Sun 10:34 |
自分を拝む
「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」
これは、私が頭を剃るご縁を支えてくれた尼僧様の言葉です。 「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」 では、自分で自分を拝むとは、どういうことでしょうか? おそらく、多くの方が、そんなに深く反省しなくとも、とても拝めるような自分でないなと気付くでしょう。 中には、俺は金持ちだから、私は大学院卒だから、または美人だから、という理由で自分で自分を拝めるという回答をする人もいるかもれしません。 しかしこれは、自分を拝める人というよりも、むしろ単に自分が好きな人でしょう。 なぜなら、お金の有る無しや学歴や美醜は、所詮、比較の問題にすぎないからです。 僭越ながら、少し私の話をさせていただきます。 私の実家は工務店です。実家の菩提寺は、浄土真宗西本願寺派です。 頭を剃ってなければ、今頃は工務店の社長をしていたかもしれません。 20歳の頃に大切な人との別れがありました。 それが機縁となり、禅の世界にひかれていきました。 大学は、駒澤大学の仏教学部にすすみました。 その頃、ありがたい事に、福井県にあるお寺の老師とご縁をいただきました。 在学中の4年間は時間とお金ができると、東京駅から夜行バスに乗ってそのお寺に参禅に通いました。 短いと1日、長いときで3ヶ月位。 何故に人は死ななければならないのか、何故に人は生きなければならないのか、ただ、真実をあきらかにしたい、そんな願いを持ちながら、老師様の教えを聞きに通っておりました。 大学を卒業してからも就職をしないで、そのままそのお寺に住み込んで坐禅をしておりました。 そのお寺での生活は、毎朝、朝2烓、2回という意味ですが、坐禅をします。 1烓とは、およそ45分です。 夜は3烓、3回坐禅をします。それ以外は、作務と托鉢。 小さなお寺ですから、畑を作り、3日に1度は托鉢に歩く。 接心という、1週間朝から夜までひたすら坐禅をする期間が年7回ありました。 夜は9時が就寝の時間でしたが、ゴザと坐蒲を持って、お墓で坐禅をしていました。 明け方まで坐っておりました。 その頃の写真を見ると、自分でもびっくりするほど細く、痩せています。 3歳になる姪に、これ法慧ちゃんだよ、と当時の写真を見せましたら、 首をふって、こんなの法慧ちゃんじゃない!って言われてしまいましたが・・・ 実は、修行を始めて間もなくの頃にイスラエルから来ていた参禅者の方と、大喧嘩をしてしまいました。 今思えば、本当に情けない事です。 老師からは、この事でこっぴどく叱られまして、「出て行け」とまで言われてしまいました。 若かったんですね。「出て行け」と言われれば、すぐ出て行こうとして。 そんな荷物をまとめている私のところに、兄弟子が来て静かにこう言ってくれました。 「全部が自分なんだ。お前は、誰と喧嘩しているんだ。 喧嘩をするという事は、結局、自分と喧嘩している事だぞ」 全部が自分・・・ その時です。ああ、これだったのか、と思いました。涙があふれてきました。 自分自身とは頭のてっぺんから足の爪先までの事だ、と思い込んでいたものが、急にほどけました。 ああ、自分という塊はないんだ、と。自分とは、この世界、全てが自分だったのだ、と。 この大きないのちにもっと深く気付きたいと願う一心で、老師に再び修行する事を請いました。 それから4年・・・老師にお坊さんになる事を許していただき、いまここに至っております。 仏教とは、仏の教えと書きます。 つまり、お釈迦さまのものの見方の事です。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする事。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする時、真理に照らして要らぬ心配をしなくなる、比べなくなる、そして、迷わなくなってきます。 南無帰依佛から始まり、不謗三宝戒で終わるこの16条の佛戒の根本は「衆生本来佛なり」であります。 私たちは、実は、佛様と同じいのちを生きている。 この戒は、破るとか守るが論点ではなく、持<たも>つという視点が大切になります。 持つとは、し続ける事。 わが身を懺悔しながら、繰り返し、繰り返し持ち続ける事によってのみ、このいのちが輝いてくる。 だからこそ、この身が尊い。 仏や仏の教え、そして、その教えを実践する者に響き、信じ、気付き、体現していくのも、この身があってこそ。つまり、この身こそが三宝であるからであります。 この身を謗らない事が、不謗三宝戒であります。 この尊いこの身を謗るような事はあってはならない。 この尊いこの身を傷つけるような事はあってはならない。 この身の尊さが分かれば、徒に命を奪い、与えられざる物を盗み、性を貪り、酔い、惜しみ、口に任し、己のみを高しとし、怒りに任すような真似は、できない。 南無帰依佛と手を合わす事とは、佛を拝み、佛の教えを拝み、それを実践する人々を拝み、 そして、自分を拝む事。 自分を拝むとは、この自分という塊を拝むのではなく、一切を拝む事であります。 一切を拝む事、それが、不謗三宝戒であります。 一切が自分であると気付き、信じ、拝む。 まず、自分を拝む事から、はじめてみましょう。 記事の続き |
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法話 18 Comments |
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02/12/2008 Tue 05:58 |
チェンダの供養
沙門は・・・
病を得たとしても、薬の力を借りず、医者の力も借りず、ただ正念をもって耐える。 2月15日は、涅槃会。お釈迦様のご命日。 彼は、布教のために歩き続けていた。 すでに80歳となっていた。 バーヴァーという村で、鍛冶職人チェンダの接待を受けた。 「チェンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧に上げてください。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を見出しません」 岩波文庫『ブッダ最後の旅』 結果、彼は腹痛と激しい下痢に襲われる事になる。 下血を繰り返し、衰弱しながらも、おそらく彼は、生まれ故郷を目指し歩き続け、 しかし・・・クシナガラの沙羅双樹のもとで、力尽きた。 以前、兄弟子が半身不随になりました。 熱と咳で、「風邪かな?」と思い、布団で寝ていたそうです。 しかし、トイレに立とうとした瞬間、立てない、動けない自分に気がついたそうです。 救急車で運ばれ、精密検査の結果、脳にわずか数ミリほどの影がありました。 原因はわかっても回復の手立てはなく、ただただ安静にという事でした。 35歳で在家から出家し、すでに50歳を前にしての出来事でした。 お寺を持つ道を選ばず、修行道場に身を置く彼は、何を想ったでしょう。 来し方、行く末を考えて、夜、泣き声を噛み殺した日もあるでしょう。 ある日、若かった私の不躾な問いかけに、彼は穏やかに応えてくれました。 「法慧さんも、苦しい時に念じてみるといい。チェンダ供養、チェンダ供養ってね。 毒きのこであると知りながら供養を受け、苦しさにのたうちまわる釈尊の姿を思い浮かべると・・・私の苦しみなど問題ではないよ。」 そして、半年後・・・お医者さんに「奇跡だ」と言わしめる事が起きました。 彼は自分の力で起き上がり、数歩、歩いたのです。 懸命なリハビリと厳しい自律の結果、彼はおよそ1年で退院しました。 今、彼は還俗をし、信じる所の道を歩んいます。 けれども、深いご縁のある大切な兄弟子であります。 チェンダ供養 チェンダ供養 記事の続き |
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法話 12 Comments |
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02/06/2008 Wed 23:05 |
遺偈
遺偈とは、禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす偈の事です。
毎年正月、己が境涯をもって、書き改めるものだと、師より習いました。 本年1月5日、曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師が106歳でご遷化されました。 遺偈に曰く、 慕古真心 不離叢林 ( 古の真心を慕い 叢林を離れず ) 末後端的 坐断而今 ( 末後の端的 而今を坐断す ) 下記は、宮崎奕保禅師の密葬を報じた中日新聞の記事の抜粋です。 密葬の様子とともに、このように禅師の遺偈と解説が掲載してありました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「慕古真心 不離叢林 末後端的 坐断而今」としたためられ、同寺によると「修行道場に生きてきて、先人の気持ちを思い、道場から離れたくないが、座ることが今、終わろうとしている」との心境が表されているという。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ・・・この解説を読んで、「何じゃ、これっ?」と思ったのは、私だけでないでしょう。 これじゃあ、まるで、ただの泣き言ではないか。 この遺偈を、こんなふうに受けとめるとは・・・ 「同寺によると」とは、大本山永平寺の事でしょう。 しかし本当に、大本山永平寺が、こんな解説をしたのでしょうか。 私は、こう思います。 祖師の心を慕い忘れず、どこにあっても、叢林を離れず。 この最期の時に当って、今一度、改めて一句を示そう。 この真実なるもの、而今を坐断す。 『五燈会元続略』には、「両頭共坐断 八面起清風」<両頭を共に坐断すれば、八面に清風起こす>という禅語があります。 両頭とは、生と死、善と悪、得と失、愛と憎、勝と負、苦と楽といった、二元での物の見方の事です。 私たちは、そんな両頭にこだわり、とらわれ、両頭の狭間で一喜一憂し、右往左往して暮らしているのではないでしょうか? 坐断とは、坐禅によって、両頭から生ずる迷い・苦しみを断ち切り、真実なるいのちに気付く事です。 二元の物の見方を坐断した世界が、而今の世界です。 しかし、禅師様は、その真実なる世界をも坐断す、とおっしゃられた。 その世界も腰をおろせば、偽者だぞ、と。 而今を坐断せよ 禅師様は、そう説き示されたのだ。 記事の続き |
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