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07/28/2006 Fri 23:28 |
お寺が続く限り
新しく永代供養墓を作って売り出すという人に会った。
跡取りのいない家庭がターゲットだそうだ。 いやね、結婚しないのもいれば、子供を作らない夫婦もいるだろ。 こんな社会情勢じゃ、檀家制度も長くはねえからな、と、したり顔。 で、どう供養するのですか?と問えば・・・ そりゃ、永代供養墓と合祀墓を作って売るのよ。 予算がなけりゃ、最初から合祀墓に入ってもらってさ。 もっとも、永代供養墓に入っても、33年経てば、合祀墓に引越しをしてもらう事になるんだけどさ。 こちらでは、永代供養とは、33年のご契約。 お葬式費用一式、戒名の料金、33年間分の護持会費、付け届け、年忌法要のお布施、塔婆料金、お施餓鬼、等々のお支払いは、一括払い。 永代とは33年ですか?とお伺いしたら・・・ だって、きりがねえじゃねえか、と、あっさり。 けど、33年以上の物を納めてくれるのなら、話は別だけどさ。 じゃあ、いつ供養するのですか?と尋ねたら・・・ そりゃ、お盆のお施餓鬼の時にでもまとめてやるのよ、と、きっぱり。 俺は金にならねぇお経は読まない事にしてるから、朝課も晩課もしねぇよ。 お前もよく考えなよ、って、言われたけれど。 お前も阿呆な考えはやめて、ここで役僧をしなよ、って、説教されたけど。 結局、青臭い想いが邪魔をして、お断り。 もし、跡取りのない人が、お墓の事を思い悩んでいるのなら・・・ もし、身寄りのない人が、自分の最期を気にしているのなら・・・ ・・・やっぱり、銭や金の事など言わずにさ、そろばん勘定なんてしなくてさ、その人の事を慮ってさ・・・だって、頭を剃ってるのだからさ・・・ 「何も心配いらないよ。お寺が続く限り、護るからね」 「何も心配いらないよ。お寺が続く限り、供養するからね」 記事の続き |
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02/21/2006 Tue 20:59 |
お寺の在り方 僧侶の生き方
ある方から、下記のような問いを頂きました。
先日 親父の祥月命日(1月4日)にお参りをお寺にお願いしたら 1月5日までお休みなので その後にして欲しいとの連絡が寺からありました。 ご意見を伺いたいのです。 以前、私が勤めていたお寺は・・・ 電話の受付時間は、9時から17時まででした。 友引の前日及び、友引の午前中は、休みでした。 歴史もあり伽藍も大きな名刹で、霊園も経営し会館もありました。 しかし、お葬式やご法事以外に、全く、人が来る事のないお寺でした。 そのおかげか、表立ってのクレームは、多くありませんでした。 お寺の在り様は、宗旨や宗派に関らず、ご住職の見識次第だと思います。 もちろん、それを支える檀信徒の方々の協力は言うを俟ちません。 お寺の収入だけで維持していけるお寺もあれば、兼職しなければ生活もできないお寺もあります。それは、概ね、檀信徒の数に左右されます。 裕福なお寺の事を肉山<にくさん>といい、貧しいお寺の事を骨山<こっさん>とよびます。 最近のお寺は、その存在価値を見直すため、人をお寺に集める試みが数多くなされています。 例えば、勉強会や坐禅会を開いたり、コンサートを開催したり、落語会を催したり・・・実に、様々なイベントがあります。 まず、お寺に人を集めることによって、地域社会のコミュニティの核になろうと努めています。 社会福祉事業に熱心に取り組むご住職も少なくありません。 不登校やひきこもりの子供を預かり、共に生活しながら、自立を支援するご住職もいらっしゃいます。 24時間お寺にいつでもどうぞ、と宣言し、悩み苦しむ人を受け入れる体制をとられているご住職もおられます。 戒名を売ることだけを目的とした商売をしている人もいます。 お袈裟や衣の色や、持ち物の値段ばかりを気になさるお洒落な人もいます。 数回の練習で、得度もしていない素人さんに葬式や法事をさせる人もいます。 繰り返し申し上げますが、お寺の在り方は、ご住職の見識次第であります。 見識とは、僧侶としていかに生きるか、だと思います。 そして、その見識を、お檀家さんが受け入れるか否か、になるのでしょう。 私自身はと申しますと・・・ 何にもならない事を、命懸けでするお坊さんになりたいですね。 坐禅も朝課も、考えようによっては、ちっとも、お金にはならないし、社会福祉のように、直接、人に手を差し伸べる事もありません。 じゃあ、坐禅や朝課が意味ないのか? そうではない。決して、そうではありません。 その一見、無価値で役に立っていないところに、実は、かけがえのない、何ものにも代えられない、いのちの風光が輝き、この世界を遍く照らし続けている。 そんな、山の佛法を、僧侶としての生き方にしたいですね。 日々の暮らしの中で、あたりまえに、為すことを成し、坐り、祖録に親しみ、縁ある方々を大切にする禅僧になりたい。 ちょっと、お酒は飲むけれど・・いや、かなり飲むけれど・・・ あなたが、善し悪しの表層のみに捉われない事を祈ります。 お父様への思いやご供養を大切にしながら、真実のいのちがあることを、自分を高めていく世界があることを、どうか、忘れないでいただきたいのです。 記事の続き |
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01/24/2006 Tue 22:30 |
布施
一般に、布施という言葉は、葬儀や法事に対するお礼として用いられています。
お礼の気持ちがあるのなら、まだ、話にもなりますが、現実には、読経に対しての対価、戒名に対しての代金のように思う方が多いようです。 お布施はいくらですか? お気持ち結構です。 こんなやり取りも、今じゃ古臭いみたいで・・・。 はい、院号の葬儀は200万円で、その中陰忌の法事は15万円です。 と、答えるのが親切みたいで・・・。 さばけたお寺は、メニューよろしく、料金表を張り出す。 檀家という名の顧客は、お金を熨斗袋に包まず、裸で支払う。 そのうち、支払いは、カードで。ローンなんか組んだりして・・・。 【明朗なお布施】と、葬儀社さんが宣伝して・・・。 【お布施の価格破壊】と、僧侶派遣業社さんも広告を・・・。 いつの間にか、お気持ちがどっかに行ってしまった。 いつの間にか、お気持ちがいらなくなってしまった。 『修証義』というお経です。 〔原文〕 布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、 其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、 然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる、 一銭一草の財をも布施すべし、 此世佗世の善根を兆す、 法も財なるべし、財も法なるべし、 但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、 治生産業固より布施に非ざること無し。 〔意訳〕 布施というのは、貪らない事です。 施すべき物が無いとしても、布施の意義を損なうものではないのです。 施す物の軽少は問題ではなく、布施の心が大切なのです。 それ故に、一句一偈の教えをも布施すべきです。 今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。 たった一銭であっても、わずかな物であっても布施の心を持って施すべきです。 それが、現世と来世に実を結ぶ尊い縁となるのです。 法と財とは別物ではありません。元来、一つものの裏表です。財法二施の功徳は無量なのです。 ただ、相手からの代償を求めないで、自分のもてる力量に応じて布施することが何よりも大切なのです。 このような布施の心をもってするならば、川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。 社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来は、布施の心に基づくものであり、実は、布施にほかならないのです。 金儲けだけのための仕事は続かない。 金で買えない物はない、と毒づいた実業家は、結局、自分の人生を買う事はできなかった。 働くとは、傍を楽にすること。 仕事は、金儲けではなく、布施の行の実践。 以前、勤めてたお寺での事。 父親が亡くなり、葬儀の依頼に来た遺族。 お金持ちの住職さんは、メニューを指差して、50万円を要求。 そんなに、払えない、余裕がない、と、懇願する遺族。 いくらまでなら出せるか、と尋ねる住職。 半分の25万円が精一杯です、と遺族。 わかりました、じゃあ、こういたしましょう、と、住職が出した提案。 通夜か葬儀か、どちらかだけにいたしましょう。 まず、坊主のお前らこそが、布施の行をしろ、と嗤われる。 布施というは貪らざるなり。 布施というは貪らざるなり。 記事の続き |
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