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11/20/2007 Tue 23:32 |
僧形
先日、日本クリスチャンアカデミー関東活動センターで、「対話プログラム」の催しがありました。
テーマは、『死と葬儀 〜宗教はどう係る〜』 講師は、雑誌「SOGI」の編集長の碑文谷創先生でした。私も応答者として参加いたしました。 碑文谷先生の講演<レジュメ有> 1、脆い死の時代 医療化した死の時代 非神話化した死の時代 2、看取りと葬送の問題点 3、宗教者の係わりと必要とされるサポート 時代背景や文化の規制を受けながらではありますが、葬儀の本質とは、いかに、死を受け入れるかであり、その葬送の形も変化する事を教えられました。 応答者ということでしたので、講演に対して、2・3の質問をすればいいのだろうと思っていたのですが、20分程度で、普段の活動を通じての問題提起をしてくださいと、司会の方に求められました。 そこで、出家の経緯や参禅の事、役僧の体験や葬儀・法事の思う事、僧侶や寺院の在り方について考えるところを述べました。 その後、全体の質疑応答のなかで、こんな問いをいただきました。 「供養という形において、<なんとなく落ち着かない気持ち>を利用して、お金儲けをしている宗教者が多いと思うけれども、その点をどのよう考えているのか」 この問いに対して碑文谷先生は、「寄り添う者」をキーワードにして、こんな体験を語られました。 ある日、僧侶との話し合いの中で、「斎場に行っても、遺族が挨拶にこないで、葬儀社が代わりにくることがある」と発言した者がいた。そこで即座に、指摘した。 「それは違う。あなたがた僧侶がまず遺族のところに出向き、話を聴くのが本来だ」 宗教者は遺族の悲しみの同伴者になることを考えるべきだ、と。 次に、マイクを渡され、私はこんなふうに答えました。 「とてもありがたい、厳しいご指摘です。 私自身は、その<なんとなく落ち着かない気持ち>を利用して金儲けはしないぞ、と覚悟をしております。 役僧を辞め、さぁどうしようと困った時、自分の中で芽生えた答えのひとつが、僧形として生きるでした。 つまり、お坊さんとして生きる事です。 じゃあ、そのお坊さんと在俗の方々との違いは何か? それは、ものの見方だと思います。 参禅のお師匠様から叩き込まれたものの見方を、ご縁あるところで説き示す事だ、と。」 38歳、やっと、その歩みをはじめたばかり・・・ Memo 1、生と葬儀 2、火葬と土葬 甲州市イスラーム霊園 3、死生学 |
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寺院の在り方 17 Comments |
Comment
挨拶・・・
大閑道人さん
故人をして仏弟子となさしむ力量のある僧侶ならばこそ、自ずから「寄り添う者」になれるのではないだろうか。
「お願いいたします」と言われる喪主との信頼関係を築いた僧侶なればこそ、自ずと「寄り添う者」になるではないだろうか。
その悲しみを、この身に引き受けずして、何ができようか。
本質は、今も昔も、都会も地方も、東西南北変わるものでないと、思います。
「お願いいたします」と言われる喪主との信頼関係を築いた僧侶なればこそ、自ずと「寄り添う者」になるではないだろうか。
その悲しみを、この身に引き受けずして、何ができようか。
本質は、今も昔も、都会も地方も、東西南北変わるものでないと、思います。
喝っ!
>力量
>信頼関係
なるほどーっ。
私は、少し勘違いをしていたかもしれない。
>信頼関係
なるほどーっ。
私は、少し勘違いをしていたかもしれない。
大閑道人さん
伝法とは何ぞや、戒とは何ぞや、畢竟、僧とは何ぞやが、今年度の布教師養成所のテーマであると思います。
衆生無辺誓願度。
衆生無辺誓願度。
ごく最近のことです、臨黄のURLにて、このブログが紹介されました。読んでみますと、大変感銘を受けることがあります。
思わず、書き込んでしまいました。
私は臨済宗にて修行をしたものですが、ものの見方に同感するものです。現実の切り取りかたというか、そして、それをものに応じて語ることができるかと、問われていると、同感です。
私たちは古人の詩とか行状記にて、古仏を知るのですが、それは、切り取りかた、見方を知るということに近いかもしれません。
私が気に掛けている、もう一つ僧侶と一般人の違いは何かというと、頭の低さです。心にわき出る我を、さらっと流して、頭が下げられるか、下げられたときに、万物と我と同根、他者の気持ちに近づけたらと思っております。駄弁を弄しました。
思わず、書き込んでしまいました。
私は臨済宗にて修行をしたものですが、ものの見方に同感するものです。現実の切り取りかたというか、そして、それをものに応じて語ることができるかと、問われていると、同感です。
私たちは古人の詩とか行状記にて、古仏を知るのですが、それは、切り取りかた、見方を知るということに近いかもしれません。
私が気に掛けている、もう一つ僧侶と一般人の違いは何かというと、頭の低さです。心にわき出る我を、さらっと流して、頭が下げられるか、下げられたときに、万物と我と同根、他者の気持ちに近づけたらと思っております。駄弁を弄しました。
岳さん
はじめまして。響くところがあって、とても嬉しく思います。
大雲系に参じたので、無文老師や盛永宗興老師、大森曹玄老師の御著書も親しく拝読しております。時折、東京禅センターでの法話勉強会に学ばさせていただいております。
>頭の低さ
常不軽菩薩の歩みは、とても大切な指針ですね。礼拝こそが禅の極みではないか、と思っております。
今後ともよろしくお願いたします。
大雲系に参じたので、無文老師や盛永宗興老師、大森曹玄老師の御著書も親しく拝読しております。時折、東京禅センターでの法話勉強会に学ばさせていただいております。
>頭の低さ
常不軽菩薩の歩みは、とても大切な指針ですね。礼拝こそが禅の極みではないか、と思っております。
今後ともよろしくお願いたします。
「お坊さんと在俗の方々との違いは何か?」
「それは、ものの見方」
全くその通りだと思います。
だから…
私にとって
慧さんのお言葉は
救いなのです。
「それは、ものの見方」
全くその通りだと思います。
だから…
私にとって
慧さんのお言葉は
救いなのです。
仏様の物差し
「人の悲しみに寄り添う」というのは、どの宗教も共通しているように思います。本来そうあるべきなんでしょうね。葬儀の形がどう形が変わろうとも。
「物の見方」というのは、あ〜なるほどなぁと思いました。世間の物差しとは別に仏様の物差しをもうひとつ持つということなんでしょうか?
「物の見方」というのは、あ〜なるほどなぁと思いました。世間の物差しとは別に仏様の物差しをもうひとつ持つということなんでしょうか?
仏様のものさし
多分・・・「同じ」ということ。・・・
でしょうか。
今回、お越しいただいた布教師さん、福井・発心寺の原田老師から、「同じ」を戴いて、七転八倒・・・というお話しをしていただきました。
世間の物差しを、すいっと、横にずらしたら、仏様の入口があった、とおっしゃっていました。
でしょうか。
今回、お越しいただいた布教師さん、福井・発心寺の原田老師から、「同じ」を戴いて、七転八倒・・・というお話しをしていただきました。
世間の物差しを、すいっと、横にずらしたら、仏様の入口があった、とおっしゃっていました。
白蓮華さん
時を得て、お話をしたいものですね。
ひろみつさん
物差しという言葉に惑わされてはいけませんよ。真実なるものは、元来ひとつですから。
大閑道人さん
すいっと、横にずらすまでもなく、露堂々。
> 露堂々。
>物差しという言葉に惑わされてはいけませんよ。
なるほどぉ〜〜
>真実なるものは、元来ひとつですから。
これも、「同じ」・・ということかぁ〜
だから、
>露堂々。
実態は、自分が横を見ていたのねぇ〜、と納得。
なるほどぉ〜〜
>真実なるものは、元来ひとつですから。
これも、「同じ」・・ということかぁ〜
だから、
>露堂々。
実態は、自分が横を見ていたのねぇ〜、と納得。
伝法
大閑道人師が、伝法とは何ぞや、戒とは何ぞや、今年度の布教師養成所のテーマと言われました。
私は、五灯会元、釈尊の項に、釈尊は迦葉尊者に西天一祖として法を伝えたのですが、側に控えていた次の伝法者阿難に、こう告げていることが嬉しく思います。
「法の本法は無法なり、無法の法も亦た法なり。今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならん」と。
《 釈尊の伝えた法の根元は無法への気づきであり、それが法といえるものであると。今、その無法への気づきを伝えるが、無法への気づきは、それを伝えても、それがどうして法であろうか 》と、阿難に対して、問いを残しております。
この詩は、同時に私たちへのメッセージでもあるのだと思います。これは、とてつもない宿題であり、伝法、戒律、僧とは何ぞやにかかわってくるのだとも思います。
私は、五灯会元、釈尊の項に、釈尊は迦葉尊者に西天一祖として法を伝えたのですが、側に控えていた次の伝法者阿難に、こう告げていることが嬉しく思います。
「法の本法は無法なり、無法の法も亦た法なり。今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならん」と。
《 釈尊の伝えた法の根元は無法への気づきであり、それが法といえるものであると。今、その無法への気づきを伝えるが、無法への気づきは、それを伝えても、それがどうして法であろうか 》と、阿難に対して、問いを残しております。
この詩は、同時に私たちへのメッセージでもあるのだと思います。これは、とてつもない宿題であり、伝法、戒律、僧とは何ぞやにかかわってくるのだとも思います。
大閑道人さん
おい、主人公。
はい。
はい。
岳さん
「如法と不如法」を「合法と違法」ぐらいにしか捉えられない人もいるようです。
禅僧の根拠は、言うまでもなく、坐る人だと信じております。
禅僧の根拠は、言うまでもなく、坐る人だと信じております。
管理人のみ閲覧できます
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僧のいう葬儀は、故人をして仏弟子と為して、仏国土へ送出す。だから、喪主が僧に「お願いします」の挨拶をすべきだ、となります。
しかし、葬儀業者の目から見れば、遺体処理の一部。
葬祭場での葬儀&告別式形式の、「手抜き」行事になってしまった現在、どのタイミングで喪主や遺族に話をするか、はその後の展開を変えてしまうことが多々あります。
供養をするのは、遺族の仕事。
僧は、供養の気持ちを一つに高めるためにそこに立ち会う。それも、仏教を実践するようにヒントを添えて。
このブログは、都会の事情をいち早く地方に伝えてくれるので、大変貴重です。