僧侶的  いま・ここ

仏教とは、仏の教え、つまり、ものの見方の事                 【禁】複製・転載

静寂

生死        内山興正老師



手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない

天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ

手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない

天地一杯の水が 天地一杯のなかに ばら撒かれたのだ


   
人は生まれることによって
生命を生じたのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに 汲みとられたのである



人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない

天地一杯の生命が
私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ


             『生死を生きる−私の生死法句詩抄』






大切なあの人を偲ぶ静寂の時

思いを凝らして あの人との出会いを喜び 別れに学ぶ
そして、あの人のたたえる寂けさによって
真実なるものに気付き、いのちのはたらきに目覚める事ができる











MEMO

1、 「曼荼羅」 
しみじみと
すべてが浸み透ってきて
荘厳な自己尽界の
曼荼羅となる――― いいものだ 年を老るとは

2、命 生命 いのち   使い方の共通認識を   


    
禅語・仏教語・言の葉


8 Comments

Comment

生死

仮に、身内だとしても、他人が死ぬのと自分が死ぬのでは違う。
内山老師のこの心境は、自分が死ぬ、という点では依存はないが、
他人の死に対しては、そうは問屋が卸すまい。

また、同じ「死」であっても、
老か、病か、それとも、事故か、あるいは、殺か、それでも違うだろう。

望むべくは、
老と病で死にたい、と願うわがままな私がいる。
2007/10/31(Wed) 17:50:31 | URL | 大閑道人 [ Edit]

目からウロコ

命、生命、いのちを分けて考えたことなどありませんでした。

大地に水を撒いたからといって水がなくなるわけではない・・・・・大事な人が死んでも、心の中に生まれ変わるということで、その人は生きているのだ・・・・味わい深いですね。僕も誰かにとって、そんな存在になれるかな・・・・

その人が僕の死後も僕を思い出すことで励まされるような。そんな存在になれるかな・・・


2007/10/31(Wed) 20:28:56 | URL | ひろみつ [ Edit]

大切な人の死によって
その人が歩いてきた道が
浮かんでくることがあります。

10年以上経っても。

その人の想いや その人の心が
鮮明になることも…。
2007/10/31(Wed) 23:33:29 | URL | 白蓮華 [ Edit]

大閑道人さん

道元禅師は8歳で母を失い、その線香の煙を見て無常を観じました。この世の、この身の常ならざる在り方に気付く事は、生死を明らめる出発点となるでしょう。
気付きの過程において、自他不二なる事を学べば、死を分ける事からも、死に様を思い悩む事からも自由になれると思います。
2007/11/01(Thu) 17:26:16 | URL | 慧 [ Edit]

ひろみつさん

先日、招かれて1時間の法話をいたしました。聴衆と言葉の共通認識を持つ作業をする事の大切さを学びました。
内山老師は生命ですが、私はいのちと説いてます。
2007/11/01(Thu) 17:39:16 | URL | 慧 [ Edit]

白蓮華さん

今秋、記憶を養うのが供養の養だと、大閑道人さんに教えていただきました。
忘れない事、そして、そこから学ぶ姿勢こそが養うという事だと、理解しております。
2007/11/01(Thu) 17:43:17 | URL | 慧 [ Edit]

内山興正老師

この詩は内山老師が一枚のしおりにしてくださったので、時折に法事でも読ませて頂いています。

ここに生命の安心があると思います。若いときには京都の安泰寺によく伺いました。あのような場が今京都にないことは残念です。
勿論、内山老師もいらっしゃいませんけれど。でも老師のお書きになった詩は今も生きていますね。
2007/11/09(Fri) 13:20:31 | URL | 風月 [ Edit]

風月さん

この詩を読み解くように努めながら、通夜や法事の場で、お話させていただいております。
佛祖の児孫として、一時的な癒しではなく、安心を伝える事が大切だと考えております。
2007/11/10(Sat) 07:33:03 | URL | 慧 [ Edit]
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