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10/31/2007 Wed 13:26 |
静寂
生死 内山興正老師
手桶に水を汲むことによって 水が生じたのではない 天地一杯の水が 手桶に汲みとられたのだ 手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって 水が無くなったのではない 天地一杯の水が 天地一杯のなかに ばら撒かれたのだ 人は生まれることによって 生命を生じたのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに 汲みとられたのである 人は死ぬことによって 生命が無くなるのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ 『生死を生きる−私の生死法句詩抄』 大切なあの人を偲ぶ静寂の時 思いを凝らして あの人との出会いを喜び 別れに学ぶ そして、あの人のたたえる寂けさによって 真実なるものに気付き、いのちのはたらきに目覚める事ができる MEMO 1、 「曼荼羅」 しみじみと すべてが浸み透ってきて 荘厳な自己尽界の 曼荼羅となる――― いいものだ 年を老るとは 2、命 生命 いのち 使い方の共通認識を |
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禅語・仏教語・言の葉 8 Comments |
Comment
生死
目からウロコ
命、生命、いのちを分けて考えたことなどありませんでした。
大地に水を撒いたからといって水がなくなるわけではない・・・・・大事な人が死んでも、心の中に生まれ変わるということで、その人は生きているのだ・・・・味わい深いですね。僕も誰かにとって、そんな存在になれるかな・・・・
その人が僕の死後も僕を思い出すことで励まされるような。そんな存在になれるかな・・・
大地に水を撒いたからといって水がなくなるわけではない・・・・・大事な人が死んでも、心の中に生まれ変わるということで、その人は生きているのだ・・・・味わい深いですね。僕も誰かにとって、そんな存在になれるかな・・・・
その人が僕の死後も僕を思い出すことで励まされるような。そんな存在になれるかな・・・
大切な人の死によって
その人が歩いてきた道が
浮かんでくることがあります。
10年以上経っても。
その人の想いや その人の心が
鮮明になることも…。
その人が歩いてきた道が
浮かんでくることがあります。
10年以上経っても。
その人の想いや その人の心が
鮮明になることも…。
大閑道人さん
道元禅師は8歳で母を失い、その線香の煙を見て無常を観じました。この世の、この身の常ならざる在り方に気付く事は、生死を明らめる出発点となるでしょう。
気付きの過程において、自他不二なる事を学べば、死を分ける事からも、死に様を思い悩む事からも自由になれると思います。
気付きの過程において、自他不二なる事を学べば、死を分ける事からも、死に様を思い悩む事からも自由になれると思います。
ひろみつさん
先日、招かれて1時間の法話をいたしました。聴衆と言葉の共通認識を持つ作業をする事の大切さを学びました。
内山老師は生命ですが、私はいのちと説いてます。
内山老師は生命ですが、私はいのちと説いてます。
白蓮華さん
今秋、記憶を養うのが供養の養だと、大閑道人さんに教えていただきました。
忘れない事、そして、そこから学ぶ姿勢こそが養うという事だと、理解しております。
忘れない事、そして、そこから学ぶ姿勢こそが養うという事だと、理解しております。
内山興正老師
この詩は内山老師が一枚のしおりにしてくださったので、時折に法事でも読ませて頂いています。
ここに生命の安心があると思います。若いときには京都の安泰寺によく伺いました。あのような場が今京都にないことは残念です。
勿論、内山老師もいらっしゃいませんけれど。でも老師のお書きになった詩は今も生きていますね。
ここに生命の安心があると思います。若いときには京都の安泰寺によく伺いました。あのような場が今京都にないことは残念です。
勿論、内山老師もいらっしゃいませんけれど。でも老師のお書きになった詩は今も生きていますね。
風月さん
この詩を読み解くように努めながら、通夜や法事の場で、お話させていただいております。
佛祖の児孫として、一時的な癒しではなく、安心を伝える事が大切だと考えております。
佛祖の児孫として、一時的な癒しではなく、安心を伝える事が大切だと考えております。
内山老師のこの心境は、自分が死ぬ、という点では依存はないが、
他人の死に対しては、そうは問屋が卸すまい。
また、同じ「死」であっても、
老か、病か、それとも、事故か、あるいは、殺か、それでも違うだろう。
望むべくは、
老と病で死にたい、と願うわがままな私がいる。